あと一週間で今シーズンの営業も終わります。外はすっかり冬一歩手前。木々の葉も落ち、哀愁漂う奥上高地です。台風も来るそうで、人の姿も疎らです。
さて、下山に向け館内の冬支度も始まっています。まずはゴミを整理し、来年要るもの要らないものの分別です。半年ですが、びっくりするくらいに物が増えています。普段見ない倉庫を整理したりと、下山前は何かと忙しない日が続きます。そんなとき、あるスタッフが古い茶箱の中から古い資料を見つけてきました。
昭和16年より使っていた便せんや昔のパンフレットや雑誌など、私の曾祖父(喜藤次)と祖父(進)のものでした。昔の便せんは、カーボン式になっており手紙なども控えとして残しておける使用になっていたため、状態もよく残っておりました。残念ながら、曾祖父の字は達筆なのですが、解読不可能で理解することはできなかったのですが、祖父の字は、どうにか解読することができました。
便せんには、村(当時は安曇村)に宛てた要望書も残っておりました。内容は、登山ブームでテント客が増えてきていること。それに伴い、公衆トイレがないため、館内のトイレを貸してはいるものの、全然間に合わず、キャンプ場にティッシュが溢れ困っている。どうか、公衆トイレを作ってもらえないかという内容でした。バキュームカーもない時代でしょうから相当苦労したことと思います。
また、抗議の文章も出てきました。昭和32年8月2日。学校登山で予約があり。2部屋空けて待っていたが、いくら待っても到着せず。最盛期でお客様を断っていたのにどうしてくれるんだ!!と便せん3枚にわたり祖父は怒っています。抗議も全て手紙で行っていたようです。「じーちゃん。その気持ち・・・時代が変わった今でも、よーくわかるよ!!」と思わず笑ってしまいました。
パンフレットは、恐らく昭和30年頃のものだと思います。宿泊代は400円となっています。ただし、米代は別途です。アクセスには、上高地より徒歩1時間半。若しくは、徳本峠を越えて8時間と記載されていました。
日記のようなものもあり、その時の思いを綴っていました。当時、ブログがあれば恐らく祖父もみちくさを作っていたかもしれません。
資料のカビ臭い匂いを嗅ぎながら、当園の歴史の長さを感じました。
レポート 若旦那